〈きょういく〉のエポケー第1巻

〈理想の家族〉はどこにあるのか?
ゲイにとっての子育て--家族の多様化2

伊藤悟

 
 

■幸福の人生指針

 女性と男性が出会って、恋愛をし、結婚の約束をする。婚姻届を出して披露宴をとり行うのは、お上と世間にその関係を承認してもらうということだ。ともに住む住居を探し、ときには男性の側の親まで同居する(後に介護するのは女性の役割にされてしまう)。家族という単位ができる。子どもをつくり、ふたりだけの関係が永遠に続くことが理想とされる……私たちの一生は、自由に人生設計ができるようでいて、どんな人間とどんな暮らし方をするべきかという指針が、「常識」「世間の眼」として強い強制力を持って存在している。
 レズビアン/ゲイの場合、この過程の最初でつまづくことになる。「女性と女性が出会って」「男性と男性が出会って」始まるのだから、いきなり家族をつくることなど否定されたも同然だ。
 もちろん、この「幸福の人生指針」に少しでも外れる人は、レズビアン/ゲイ同様、家族と無縁の存在と見なされかねない。婚姻届を出さない人、披露宴をやらない人、別姓のまま結婚したい人、同居しない人、子どもを持たない/持てない人、離婚した人、結婚しているのに他者と関係を持った人……。誰かに承認されないと、家族は成り立たないものになってしまっているのだ。
 実際、私たちや、レズビアン/ゲイ団体・ウェブサイトのもとに寄せられる相談には、これを反映したものが大半を占める。
 「長男なので、家を継いで結婚しろと言われている……」「(日常生活で)異性が好きなふりをせざるを得ないのがしんどい……」「結婚して子どもがいないと一人前ではない、と職場(家庭)で言われている……」。
 押しつぶされんばかりの指針の押し付けに負けて、かかわったもの全てが不幸になる偽装結婚を選択せざるを得ないゲイも、減ってはいるものの、まだいる。
 したがって、この指針を捨てて(あるいは、捨てざるを得ず)、新しい指針を立て、自分の気持ちに素直に生きていくことはきわめて困難になる。さらに、人間がひとりだけで生きていくということもまた、きわめて困難であるとすれば、なんらかの関係や「単位」をつくらざるを得ない。
 しかし、それを家族と呼ぶことは、社会的に容認されていないのだから、家族で生きていくことが「普通」「アタリマエ」「当然」と刷り込まれてきた度合いが高ければ高いほど、絶えず不安と自己否定感に悩まされることになる。

■私たちの新しい「単位」づくり

 私を例にとると、自分がゲイ(男性同性愛者)であることを時間をかけて受け入れた後、上記の「幸福の人生指針」のなかになんとか自分自身の生き方をすべり込ませることはできないか、つまり、世間(社会)と折り合いをつけられないか、と思い悩んだ。この指針とまったく別な指針を立てるだけの資料もロールモデル(お手本)も体験もないなかで、指針の一部だけでも実現して、自分も「世間並み」になれないかと考えたのだ。
 私は、そのとき、付き合いだして7年目になるパートナー・簗瀬竜太に、同居を提案した。これなら立派に「指針の一部」になる。しかし、高齢の母親の面倒を見なければならないという私の状況から、ふたりだけの同居ではなく、3人で住むというかたちになった。このトライアングルは、不協和音を発せざるを得なかった。生活習慣や感情のもつれ(嫉妬や対立)からトラブルは絶えず、1年で、同居解消に至る。
 これは、見方を変えれば、いわゆる「嫁姑問題」であった。事実、ゲイであることをカミングアウト(同性愛者であることを伝え、相手や社会との関係性を変えていく過程のこと)していた私たちを取材したある週刊誌が、「姑感激・ゲイの花嫁」という恐るべき見出しを付けて、私たちを傷つけた。
 つまり、世間の枠から見ると、この見出しの図式に当てはめておけば安心で、実は根拠の薄い、将来に亘って不変でメリットがあるかどうかわからない「幸福の人生指針」を護ることができるのだ。
 もちろん、それはまったく真実ではない。私たちが学習したのは、簗瀬にとっては「他者」でしかない私の母親と彼がうまくやっていけるという保証はないし、すべての人と心地よい人間関係がつくれるなどというのは幻想だから、恋愛関係にあるふたりといっしょに、別の他者が同居して、必ずしもうまくいくとは限らない。
 そしてそれは、性別や性的指向(性的な意識が同性に向くか、異性に向くか/二元的に別れるものでなく、ひとりの人間にそれがある割合で存在していて、可変性は少ない)に関係ない、ということであった。
 いいかえれば、「嫁姑問題」は、起こって当然で、どちらが悪いと判断すべき問題ではなく、したがって、その解決策がしばしば女性の忍耐に求められるのはおかしい、ということでもある。そもそも、安易に男性側の親と同居するのが「普通」だから同居したという選択、そしてその選択のもとになった指針が間違っているということになる。
 さらに私たちは、この同居の崩壊後、ふたりのつながりをどう再構築していけばいいか、迷いに迷うことになる。
 その後、同性愛者に関する正確な情報を提供する事業をする団体「すこたん企画」(http://www.sukotan.com/)を設立したことをきっかけに、仕事上のパートナーシップを結ぶことによって再生を図る。
 だが、時間は、初期の恋愛感情を風化させ、仕事をいっしょにやっているというだけでは、ふたりが「単位」でいることが危うくなってくる。ついに、実質的に「別れ」を選択するときがやってきた。
 一般的に、同性愛であれ異性愛であれ、もったいないことに、あるカップルが別れると、それで一切の関係が失われてしまうことも少なくない。私たちは、それだけは避けようとして、ともに仕事(というよりは活動に近いが)を続けた。
 ここで置いた距離がよかったのかもしれない。お互いをひとりの「個」として考えられるようになった。恋愛の過程で、相手と一体化するのが理想だとずいぶん長いこと考えていたが、両者の違いを受け入れて、しかし、いや、だからこそ、共同で何かを創出していくことがおもしろい、と思えるようになった。
 その他にも様々な回り道をしてみた結果、関係性を表す適切な言葉が見つからないのだが、お互いになくてはならない存在で、人生のパートナーと言い切れるのははお互いである、という結論に達して今に至っている。「幸福の人生指針」には何一つあてはまっていないが、私たちは、ある「単位」としてこれからも生きていくことだろう。

■レズビアン/ゲイのパートナーシップ

 ひるがえって、異性愛者の場合、「幸福の人生指針」どおりに自分の人生を描くのは容易である。もっとも、この人生指針自体が、資本主義社会の経済発展を支えてきた(女性を家事と子育てに専念させることによって、男性を酷使するこ、それを感性から理論から総動員で正当化する)仕組みなのだから、それはただ言葉を言い替えているのと同じなのだが。
 いずれにせよ、指針にほぼ従っていれば、社会から放り出される危険もないし、ふたりの関係性を問い返す必要性すらなくなる。
 というのは、婚姻届と披露宴の社会的強制力は、いったん結婚制度の枠に入ってしまえば、そこから脱け出ることを困難にする。裏返せば、婚姻届を出した瞬間に、関係性を維持する努力をかなりの部分放棄しても、その関係を解消することは難しい、ということだ。
 結婚後も、パートナーシップを磨いていかないでもすんでしまうなら、カップルは、最も安易な惰性という道を選ぶかもしれない。そうなると、男性は、労働とつきあいで、家にいる時間が減り、女性は、家事労働・子育てに専念しつつも他の生きがいをさがし始める。すれ違ってもなかなか離婚できない。こうして、経済体制は維持され、子どもができて労働力も再生産される。
 レズビアン/ゲイには、こうした強制力はまったくない。とすれば、パートナーシップを続けていくためには、自分たちで強制力をつくり出してきて縛りあうか、新たな要素を導入するしかない。恋愛感情は、残念ながら、必ず冷めるもので、冷めた後に新たにどんな関係がつくれるかが「勝負」となる。
 もちろん、その時点で関係をあっさり解消するというのも一つの方法である。だから、同性愛だと関係が長続きしないという言説が、しばしば批判的文脈で使われるが、無理に長続きさせているのが異性愛だ、と展開することも可能なのである。
 さらに、レズビアン/ゲイのパートナーシップには、「だから鍛えられる」などとのんきに構えていられない障壁がたくさんある。デート中に手をつなげない、といった無言の圧力(ときには明確に指さされたり笑われたりする)。ラブホテルの利用やアパートの賃貸を断わられたりするといった生活上の不利益。そして、パートナーが入院したときの面会権やパートナーが死んだときの相続権など、さまざまな権利を奪われている。 そのなかで、絶えず周囲から押し付けられる「自己否定感」(「幸福の人生指針」からはずれていることをいやというほど味合わされる結果、生じる)と折り合いをつけながら、パートナーシップをつくりあげていく過程で、壊れなくてもいいはずのパートナーシップまで壊れる。「自尊心」が奪われて自己肯定できなくなると、相手を肯定的に受け入れる余裕がなくなるからだ。
 したがって、レズビアン/ゲイのパートナーシップにおいては、「自分とは何か」を考える過程が不可分のものとなる。それによって、まず自立した「個」があったうえで支えあって生きていこうというパートナーシップを築き、維持したいと思う確率も高くなる。私の例で述べたとおり、それぞれが違った人間だということを前提にして付き合っていける可能性があるということだ。
 惰性で結婚関係を続けられるために、お互いを自立した人間ととらえられなくなる異性愛者と対照的だ。誤解を恐れずにいえば、不利益を資源として活用することもできる(もちろん、だからといってその不利益を生じさせている社会的条件が免罪されることはけっしてない)。
 とはいえ、「個」と「個」のぶつかり合いという「厳しい」要素だけでパートナーシップが成立していくものでもない。パートナーシップのの継続には、ある種の「装置」(デートのやり方を変えるといった小手先のものも意外と重要だが、ここではもっとパートナーシップを全体として支える自分たち自身以外の要素)が必要になることもまた確かだ。
 レズビアン/ゲイは、その「装置」を見つけて来たり、発明したり、改良したりすることにエネルギーを注がざるを得ない。あるカップルは、稼いでは旅行に行く。別のカップルは、共通の趣味にはまりまくる。ペットやインテリアといった「小道具」を含む日常生活そのものを生きがいとするカップルもいる。私たちは、仕事を「装置」とし続けている。だとしたら、その「装置」が「子ども」であってもおかしくはない。必然的に選択肢に入ってくる。
 このことは、私の同居願望のように、「幸福の人生指針」に自分たちの生活をすべり込ませようというのとは微妙に異なる。なぜなら、「幸福の人生指針」においては、子どもとかかわることは、出会ったときから組み込まれていて、無意識的に子どもを持たない/持てないカップルを蔑視してしまうことがあるほど、ほとんどのカップルにとって、疑う余地のない、所与のものになっているからだ。自明なものと、自分で選択したものとは決定的に違う。

■「親」になること

 ここにおいて、それを象徴的に表しているのは、「親」であることのとらえ方の差だ。異性愛の場合、子どもが生まれると同時に、女性に「母」、男性に「父」という資格が与えられる。本人たちも、一瞬のうちに、「親」という資格を得たと思い込む。
 ところが、その後の子育ての道程のなかで、「親」になろうとしないと、最後まで「親」になれないことがわかってくる。そもそも「親」というのが、子どもに対するある関係を表す言葉だとしたら、自動的に「親」になれるはずはなく、子どもとのやりとりのなかで、ふたつあるいは3つの「個」が、「親」と「子」になっていくはずである。
 『男だけの育児』(ジェシ・グリーン著、伊藤悟訳、飛鳥新社)の著者、ジェシ・グリーンさんは、養子をとった男性を好きになり、「恋人」になることと「親」になることを同時に開始する状況に置かれる。そして、最終的には、ふたりの養子とパートナーのアンディさんとともに、著者だけ近くのアパートに住むというかたちで、新たな人生の「単位」を形成していく。ゲイ・カップルの子育てである。
 彼は、同書のなかで「子どもを持つことと、親になることとは違う」とくり返し書いている。彼は、山のような洗濯物を仕事の合間にどうこなすか考え、子どもがまったく突然起こすマニュアルなき予期せぬ事態に必死で対応し、子どもの「自立」という別れまで覚悟しながら、「親」になるトレーニングに挑んでいく。
 「卒業」はないトレーニングだが、パートナーのアンディさんと徹底的に話し合い、子どもから学びながら、実力は確実に向上させ、自分を再発見できることに歓びと誇りを感じている。
 さらに、子どもそのものが人生の対象になってしまわないように、自分自身の生き方も忘れずに追求していく。子どもも、「親」から独立した一つの「個」だ。彼は、子どもを何かの手段として利用することを注意深く排除する。
 異性愛の「親」たちの現実は、どうだろうか。「親」になるという発想すらないままに、なりゆきと惰性で、漠然と「親」らしきものをこなしている。そこからは、愛情の不足や過剰、子どもへの虐待など、さまざまな破綻が出てきて当然だ。「親」であることの醍醐味も楽しめない。いや、その前に、ふたりの親同士のパートナーシップの妙味も感じることができないでいる、というべきだろうか。
 こうした視点が、私がゲイであるために生じる偏ったものではないことを証明するために、90年にパートナーの女性と離婚して以来、当時3歳と2歳のふたりの男の子の子育てをし続けている土堤内昭雄さんの『父親が子育てに出会うとき』(自費出版)から引用したい。
 彼は、さまざまな体験を引きながら、「子育ての素晴らしいことは、子どもとの深い関わりの中で、逆に子どもが親の可能性を引き出してくれることである。瑞々しい子どもの感性が、私の視野から消えていた物事を再び思い起こしてくれたり、人への思いやりを教えてくれたりする。子どもを育てることは、つまり親自身の成長そのものなのである」ことを強調する。
 子どもたちを保育園まで送り届ける途中で、子どもたちの自然観察力に舌を巻き、次々訪れるハプニングにハッと気づかされ、子どもをスイミングスクールへ連れていくうちに自分が水泳のおもしろさを教えられる……。子どもの可能性を発見して伸ばすことは、自分も育てられることに等しい、つまり、「育児は育自である」と実感しているという。
 「子どもが小さい頃、毎週末親子で公園に出かけた。公園で彼らはひとりでトコトコ歩き出し、少し僕から離れるとこちらを振り返って僕の居場所を確認し、またトコトコと歩き出す。そしてまたこちらを振り返り僕の位置を確認する。これを何度も繰り返し、彼らはどんどん遠くへ遠くへと離れていく。このような子どもの行動を見ながら、子育てとは子どもと強い絆を作り、その絆が太ければ太いほどお互いが自立し、遠くへ行くことができるものだと思った」。
 この文には、親も子どもも「個」でしかありえないし、だからこそ「父親である」といえるためには、「父親になる」過程が必要であることが明確に表現されている。

■さまざまな神話の崩壊

 ところで、この論考のタイトルであるが、編者・編集部から「ゲイにとっての子育て」と与えられている。なぜ「レズビアン/ゲイの子育て……」または「同性愛者の子育て……」ではないのだろうか。
 「ゲイ」という言葉は、異性愛強制社会のなかで、医学的につけられた「ホモセクシュアル」あるいは異性愛者によって軽蔑的に使われるさまざまな表現に対抗するために、欧米の同性愛者たちが「前向きな」というニュアンスを込めて自称として選び取ったもので、ダブル・マイノリティとして女性同性愛者が「レズビアン」を選び取るまでは、同性愛者の総称だった。
 しかし、それを意識しているわけではあるまい。たぶん、レズビアンの子育て、というのは、暗黙のうちに了解されているのではないか、と推測する。
 私も実は、それを意識して、男性が子育てをすることが可能であるどころか、子育てにおいて、性差は社会で考えられているほど大きくはない、ひょっとしたらないかもしれない、ということを示唆するように文を進めてきた。
 本旨ではないので、展開はしないが、「母性神話」は実践によって、解体が始まりつつあるのだ(『男だけの育児』のジェシさんによれば、アメリカでも、養子を斡旋するとき、同性愛者の場合、レズビアンが優先されるケースが多いという)。
 そして、「母性神話」だけではなく、固定的な家族イメージを伴う「幸福の人生指針」も崩れつつある。
 今や、同性愛者のパートナーシップに対する権利保障は、1984年に、アメリカのバークレー市議会が同性愛者にも「事実婚」を認めるドメスティック・パートナー制を採択し、1989年に、デンマークが同性婚に近い制度を法律で定めて以来、20近くの国や州で同様の制度ができた(アメリカでドメスティック・パートナー制を採用している地方自治体や企業は3000を越える)。
 近年は、結婚制度に同性愛者を組み込むのでなく、結婚とは異なる「契約」という概念でふたりの人間(異性か同性かのみならず、恋愛関係の有無も問わない)の関係性を保障する制度もつくられるようになっている(フランスの「パックス」法とアメリカ・バーモント州の「シビル・ユニオン」法など)。また、これらの制度も、当初は、養子だけはとれないとしていたものが、養子の権利も保障するべく改正される国が出てきた(オランダなど)。
 さらに、2002年2月には、全米小児医学会が、同性愛カップルの養子問題についての検討結果をまとめ、「両親が同性同士でも、子どもには異性の両親と同様の愛情があり、安定した心理的にも健全な家庭を与えられる。心理や認識力、社会的・性的機能の側面で違いはない。子どもの発達は、特別な家族構造に左右されるというよりも家庭内の関係に影響される面が大きい」と発表し、レズビアン/ゲイのカップルの養子に対して、法的にも医療的にも異性の夫婦の子どもと同じ権利を与えるよう求めた。
 これまで述べてきたように、日本においては、「幸福の人生指針」の強制力はまだかなり頑強である。しかし、同性愛者やトランスセクシュアル(いわゆる性同一性障害の人たち)といった性的なマイノリティの人たちが、可視的になってきた。メディアの嘲笑の対象としてしか目に見えないのではなく、日常生活のそこかしこでカミングアウトして、「自分らしく」生きようとする人たちが急速に増えているのだ。そのなかで、「幸福の人生指針」はすでに問われ始めている。

■『ハッシュ!』

 その象徴として、橋口亮輔監督による映画『ハッシュ!』(2001年カンヌ国際映画祭・正式招待作品)を紹介して、この稿を閉じたい。
 この作品は、まず、ゲイ・カップルの日常が丁寧に等身大に描かれている。同性同士だから、で片付けられない、人間関係の機微、たとえば、些細なことでケンカしてどう仲直りするかから始まって、ふたりのありようの違いにどう折り合いをつけてともに生きていくかまでが、「リアル」に迫ってくる。ゲイが置かれている社会的状況の厳しさも、さりげなく(だからこそ真に迫って)表現されている。
 ゲイのふたりは、映画の後半では、お互いを「個」として認め、違っているからおもしろい、という境地の入口へ到達する。その先は描かれないが、不思議な希望に満ちていた。
 その新しいつながり方を促進するのが、「子どもがほしいの」とふたりにかかわってくる女性だ。彼女は、自分を育てるために、交際抜きで子どもを持とうとし、精子を提供してほしい、後には、共同で子育てをしよう、と持ちかける。
 しかし、3人はけっしてべたべたしない。彼女は、ふたりのゲイの間に、甘えたり介入しすぎないし、ふたりのゲイも、自分の愛情をお互いに表現できるようになるに連れて、彼女とも親近感を持つようになる。
 3人は、次第にほどよい距離を見つけて(最もこの関係を表すのに近い言葉は友情だが、新しい要素が加わっている)、まったく今までの「幸福の人生指針」にはない「単位」を形成しだす。子どもは、ここに、3人が関係性を維持し、自分を見つけていくための「装置」になるかもしれない(ならないかもしれない)、というところで映画は終わる。
 ゲイだから、孤独に生きるしかない、と「幸福の人生指針」によって刷り込まれるなかで、いやいやどうして、もっともっと「幸福」の形はいろいろあるのだ、ということを明快に打ちだしている。こうした視点にこそ、頼もしい未来がある。