アイルランド系の誇り〜フランシス・チャールズ・コンラン
 Braden Quatermaine
[THE SUNDAY TIMES 2005年1月30日付け訃報記事]

 フランシス・コンランさんは、アイルランド系としてイギリスに生まれ、オーストラリアに長く暮らし、日本語がとても上手でした。
 彼の短い人生の中には、並外れた活力と、家族への大いなる愛と、ユーモアのセンスなどたくさんのキャラクターがつめ込まれていたのです。
 コンランさんは、日本語の教員として尊敬されていたばかりではなく、とりわけ同性愛者の人権擁護と、パースにおけるアイルランド系の人たちの認知に対して熱心に活動していました。
 彼の妻のシューリアンさんは、「彼は実行する人でした。立ち上がって、やり抜きました。でも彼は、名誉など望んでいませんでした。私欲など持たず、穏やかにそつと活動していたのです。いつも自分より他の人の世話を優先させていました」と語っています。

 コンランさんは、1952年11月27日、英国バーミンガムで、アイルランド人の父・ジョゼフとイギリス人の母・バーバラの間に生まれました。
 子ども時代をイギリスで過ごした後、彼が10歳の時、彼の家族は、パースに移住しました。
 コンランさんは、21歳でオーストラリア政府の奨学金を勝ち獲り、その後7年間日本に留学し、完ぺきな日本語を身に付けました。
 そして日本で、同じ留学生だったシューリアンさんと出会い、1979年、東京で結婚しました。ふたりは、留学を終えるとパースへ行きそこに住みつき、ふたりの娘をもうけました。

 コンランさんは、数校で大学レベルの日本語の講師をこなし、日本語の入学資格試験の主任も務めました。
 彼の活発さと、人を誰でも歓んで迎え入れる性格を表しているエピソードとして、電車の中で出会った、日本から来た観光客グループ28人を自宅へ連れていったという話があります。そのグループに、彼の勤める大学の近くにいるカンガルーまで見せに行くというサービスぶりだったそうです。
 コンラン夫人は、「彼は、何年にもわたって、しょっちゅうそんなことばかりしていたんです」と回想しています。

 コンランさんは、自分がアイルランド系であることに強く誇りを持っていて、パースの地でアイルランドの文化を広めることにも熱意を注いでいました。
 彼はまた、フリーマントル[パースの南にある市]で毎年行われているセント・パトリック[アイルランドの守護聖人]を祝うパレードを主催しているタラ・クラブの3人の創立メンバーのひとりでもありました。
 歴史の中でアイルランド系の人たちがパースに対して様々な貢献をしていることを広く知らしめるために、彼はそうとうなエネルギーを割いていました。地方議会に訴え、街の各地域の通りや公園に、アイルランド人が健康や教育や社会基盤整備(インフラ)に貢献したことがわかるような名前を付けさせることを推進したのです。

 コンランさんの心にあったもう一つの大きな目標は、ゲイ/レズビアンが平等に扱われるようにしていくことでした。彼は、大きな熱意を持って、あらゆる市民が平等に生きる権利を求めて運動していました。そんな中で、ゲイ/レズビアンに関する法律を改善することに大きな関心を寄せたのです。
 彼は、新聞にたくさん投書をし、毎年ゲイ・プライド・マーチに参加して「カトリックと友だち」の旗の下で行進しました。
 「彼は、少数派のために情熱を注ぎました。法律によっても、神の御心によっても、あらゆる人は平等である、と信じていたのです」コンラン夫人はそう述べます。
 コンランさんは、自分の通訳・翻訳技術を、日本の同性愛者のおかれている状況がもっと理解されるためにも使いました。彼は“Coming out in Japan”という日本で出版された本を英語に訳し、日本の国外に日本のゲイのことを知らせる大きな役割を果たしたのです。

 彼は、妻とふたりの娘(サラとグレース)を遺して、2004年12月24日に先立ちました。

[翻訳:伊藤悟]

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