グレース・コンランさんの弔辞
2004年12月30日
西オーストラリア州 北フリーマントル セント・アン教会にて

 人の人生を、ほんの数分でまとめることは、とても難しいことです。みなさんもご存知のとおり、特に私の父のようなとても偉大な人の人生をまとめて語ることは、不可能に近いことだと感じます。数々の偉業を成し遂げ、そして、とても偉大で活気に満ち溢れた父のことを、短いスピーチに要約し、全体像を捕らえることは難しいことでした。どんな言葉を用いても父を説明しきることはできないけれど、私が「お父さん」と呼んだ男性について、これから話そうと思います。

 今日、ここに来ていただいている皆さんは、皆父のことを考えているでしょう。そして、ユーモアのセンスにあふれ、どんな人でも温かく受け入れる性格だったな、とみなさん一様に考えていると思います。父はいつもどんなときでも微笑んでジョークを飛ばし、人との付き合いに喜びを感じていました。父はいつも率先して人を励まし、確固たる確信を持ち、どんなことにも向かっていく人でした。そして、言うまでもなく父は、パーティーなどの時いつも人々の中心にいて、人をひきつけずにはおかない光輝く存在でした。
 そんな輝くような父でしたが、そうした陽気な外見のすぐ下の内面では、実直で繊細で、愛に満ちた夫であり父でした。そして、人生においてとてもささやかなことやものに対して大きな喜びを感じるような人でした。恩恵を頂いたものに対しいつも感謝し、誰もが当たり前だと思うようなことに対してもしばしば、感謝の気持ちを大きく表現したものでした。視力、聴覚、強い脚、その全てを使って、きれいな夕暮れや爽やかな虹を見たり、ラジオから流れてくるお気に入りの音楽に合わせて歌ったり、海岸をたっぷり散歩したりしながら、幸せを心から噛みしめていました。人生におけるこんな単純な楽しみでも、父は喜びを感じ、そんな父の人柄は他人をも動かすものでした。そして、 そんな父の人柄が、私とサラの成長に深く影響を与えてきたことは間違いありません。

 父は家庭を大事にしており、妻を愛する夫また娘たちを愛する父でした。私たちが父に大切にされなかったり、そう感じたことは決してありませんでした。サラと私は、父にとって小さな2人のお姫様でした。どんなに自分たちがダンスやスポーツや旅行を楽しんでいる時も、影から私たちのことを100%サポートしてくれていました。
 そして、父は様々な形で、私たちのことを見守ってくれていました。父は、私たちのダンスコンサートに毎回来て観てくれたり、母の日本語聖歌隊のMCを勤めたり、私たちが幼少の頃、幼稚園や誕生日会でピアノを弾いてくれたりしてくれました。最近でも、祖母のナースィング・ホームでピアノを弾いたりしていました。そして、毎朝、母の職場までバッグを運びに行ったり、早朝にナイトクラブまで私たちを迎えに来てくれたりしてくれました。
 生まれてからずっと、父が私たちに「君達のことを誇りに思っている」と言うのを聞かない時期は全くなく、そんな言葉にいつも私たちは感謝していました。私たち家族はとても緊密な4人組で、友人たちはよく「サラやあなたと知り合いになると、すぐに『コンラン一家』の残りの人たちととても仲よくなっちゃう」と言っていました。

 父の内面にはいつも「童心」がありました。例えば、電話に出る時も普通には出ないで、ふざけて出る癖などです。「こちら、中国系の洗濯屋ですが・・・」とか、「何だよ? 僕が今忙しいことは分かっているだろ?」とふざけて電話で答えたりしていました。父は簡単に当惑する人ではなかったけれど、後者の反応をした時に一度、父の答えた電話の相手が父の指導教官だったことがあり、父は自分の顔を赤カブのように可愛く真っ赤にしていました。
 また、私たちが子どもの頃、私とサラはいたずらが大好きで、夜ゴルフコースにある大きなスプリンクラーの間を駆け回って遊んだり、寝る時間が過ぎても居間で音楽に合わせてダンスをしたりしていました。そんな時、母は自分の顔を横に振り、あきれながら私たちを叱ったけど、父まで一緒に叱られていました。父も私たちといつも一緒にいてことのほか 楽しんでいたのです!

 父のひつぎを見れば分かるとおり、その上に父を思い出させる数々の物が飾られています。とりわけ父自身を説明しているものは、父の故郷のシンボルであるアイルランドの国旗と、父がどこへ行く時も被っていた帽子です。ノーフォーク島の松の小枝は、父のお気に入りの木です。私たちの家や近隣の芝生に植わっている7本の同種の松の木は父が植えたものです。父は暗やみに紛れて、そっとそれらの木を植え水をやっていました。市議会の承認を得ることができなかったためです。そして、今日、千羽鶴が父のために折られました。父は今年、母や母の生徒さんたちと一緒に日本に旅行へ行くはずでした。もし父が生きていれば、今頃日本にいたでしょう。彼らはアイオナ・コミュニティー[キリスト教の団体]の生徒さんたちと、千羽鶴を折って、平和のシンボルとして、それを広島へ持っていく予定でした。こういうことになって、予定も変わってしまって広島にこの千羽鶴が持っていかれることはなかったけれど、友人たちの助けも借りて、何とか今日この日のために千羽鶴を折ることができました。

 今日、ここにいらしていただいた方々を見ると、実に様々な文化的背景や仕事を持った方々がいらしています。父はその一人一人に深く関わり、たくさんの領域で大きな熱意を持って活動していました。今日、ここに来ていただいている皆さん自身は、ご自身がかかわっている領域でしか父を知らないかもしれません。そこで、父がかかわってきたそれぞれの領域について、簡単ではありますが、皆さんにお話ししようと思います。
 まず初めに、父の日本での経験についてお話します。父は21歳の時に奨学金を獲得し、日本に7年間留学しました。そこで母、シューリェンと出会い結婚しました。そして、父と母は学位取得後パースに移りました。父はパース周辺の大学で日本語講師を務め、最近ではエディス・コーワン大学で教えていました。父に感銘した学生さんはとてもたくさんいて、レポートには、常に授業は面白く、素晴らしい先生だと書かれていました。父のクラスはとても面白いと評判でした。各学期終了後、父は彼の生徒さんたちを我が家に呼び、パーティーをしていました。お互いに一生の友人になった生徒さんも少なくありません。
 父の日本文化への関心と愛情は、授業だけにとどまりませんでした。父は日本語の大学入学資格試験の主任を数年間務めていました。そして、日本語シラバス委員会、日本語スピーチコンテストの審査委員等も務めていました。父は、偶然出会った日本人旅行者を私たちの家にたびたび連れてきました。かつて父は、その日電車の中で偶然出会った28人の日本人旅行者を家に招待し、さらに自分が働いているジューンダラプ[パース市内の地名]にある大学に、カンガルーを見せに連れて行ったりもしました。3年間の猛勉強の末、父は応用言語学の博士号の課程を、入院する3ヶ月前に完了しました。しかしながら、まだ博士号の資格審査の会合にかけられていません[現在は博士号を取得]。
 先ほど述べたとおり、父は母が入っている日本語女性聖歌隊のコンサートで必ずMCを務めていました。父は聖歌隊のメンバーの方々にも尊敬されていて、彼らの歌声が大好きでした。クリスマスの前も、聖歌隊の方々が病院を訪れ、父のために聖歌を歌って下さいました。父は感激し、涙していました。そして、日々を励まされ、しばらくはこの出来事が私たちの話題の中心になりました。父はとても喜んでいました。「なでしこ」の皆さん、本当にどうもありがとうございました。

 父はイングランドで生まれましたが、家族の出身地であるアイルランドを敬い愛しており、パースにアイルランドの文化を紹介することに全力を尽くしました。父は、アイルランドの文化を愛し、パースの人たちとそれを共有するための基盤を作りたいと考え、「タラ・クラブ」の3人の創立者のひとりになったのです。タラ・クラブは、フリーマントル[パースの南にある市]で毎年行われているセント・パトリック[アイルランドの守護聖人]を祝うパレードを主催しています。ファミリー・コンサートもさかんに行っています。小規模の集まりだったパレードも、今や、セント・パトリックの日におけるパースを代表するイベントになっています。
 父が熱心に活動していたことで、セント・パトリックの日はすぐに、1年の中で私たち家族にとってとても思い入れのある日になりました。パレードや、それに関連するイベントの他に、私たち家族はノースブリッジにあるRosie O'Grandy's[古いパブ]に行き、そこで白やオレンジの服を着飾って一晩中、父と一緒にバンドの前で踊り、みんなで“Whiskey in the Jar”や“The Field of Athenry” を歌いました。

 ここ数年、父の個人的関心は、アイルランド人のパースに対する歴史的貢献を広く知らしめることに向かっていました。市議会等に書面で訴え、街の各地域の通りや公園に、アイルランド人が健康や教育や社会基盤整備(インフラ)に貢献したことがわかるような名前を付けさせることを推進したのです。驚くほど精力的に、歴史を探り、何度も請願し、議会はもちろん様々な会合で熱く語り、名前が採用されるよう説得した結果、次のような名前が付けられました。Subiaco's Dublin Close, Tipperary Mews, Edenderry Tce, Mosman Park's Dublin Lane, Derry Lane, Kavanagh Mews, O'Halloran Lane, Bunbury's Catalpa Park, JB O'Reilly park, Fenian park等です。「カタルパ」という名の船に乗ってオーストラリアへ逃れて来た6人のフェニアン[古代アイルランドの武士団の名称で、19世紀には「フェニアン主義」を唱えるアイルランド愛国者がたくさん現れた]の記念碑を、ロッキンガムのカタルパ海岸に建てる提案をしたのも父でした。
 父は、彫刻家の方々、歴史家の方々、そしてロッキンガム文化遺産継承委員会の方々と密接に協力して準備に奔走しました。来年4月に「ワイルド・ギース(野生のガチョウ)・メモリアル」として完成することになっています。

 父が強い関心を持ったもう一つのグループは、ゲイ/レズビアンの平等を求める団体で、ともに活動していました。父は全ての人は皆平等だという信念を持ち、異性指向でない人を差別する根拠として、聖書の解釈すなわち神を持ち出す人々に強く反対して声を上げていました。父自身は聖書を、自分の信心の根拠として、神は全ての人々をありのままの姿で迎え受け止め愛する、と解釈していたからです。それゆえ父は、法の下で神の下で、全ての市民が平等になる権利を求めて、本当に熱心に活動しました。父は、ゲイ/レズビアンの人権を求めて法律改正を訴え、新聞社にたくさんの投書を送って多数派の見解に疑問を呈し、毎年ノースブリッジで行われるゲイ・プライド・マーチに参加して「カトリックと友だち」[団体名]の旗の下で行進しました。そして、まだ社会にはびこる破壊的な同性愛嫌悪を払拭し、くり返し同性愛者に対する偏見をなくそうと奔走し、少しずつ地道にそのような偏見をなくしていったのでした。

 2002年6月、父の脚にメラノーマ(黒色腫)が発見されました。それは、その後2年間、徐々に拡大し、父を死に至らしめました。亡くなる前の6ヶ月間、父は特に苦しめられていました。その間は父にとって精神的にも肉体的にも、ガンに立ち向かっていくことは辛かっただろうと思います。しかし父は、私が知っている中で最も強い人間のひとりで、不屈の精神で病気と闘いました。父が亡くなる数週間前、父は自分の人生を振り返り、私たちにこう言いました。「望んだよりも早く、神に召されつつあるけれども、全く悔いはないよ。お金とか地位以前に、何よりも大切な家族がいて幸せだから。すばらしいパートナーを選ぶことができて、本当に恵まれていたし」。父は、健康な時も病気になった時も、母のことを心の底から愛し、病気の間も決して変わらなかった母の愛と支えを、私が表現することは不可能なくらいに、本当に感謝していました。
 父のすばらしいユーモアのセンスは、暗い日々を切り抜ける助けになったことは間違いありません。亡くなる3週間前から、入院した父の容態はどんどん悪化していきました。病気は、私の想像を超えるほどどんどん確実に父の身体を蝕んでいったけれど、どんなものも、どんなことも、父の心をめげさせることはできませんでした。緩和ケア病棟の看護士さんたちはみんな、父がジョーク好きなアイルランド人、あるいはいつもジョークを求める人だと知っていて、実際、何も新しいジョークの話題を持たずに、父の病室に入ることをためらうほどでした。亡くなる直前、父は私たちに天国の[12ある門のうち]真珠の門の番人であるセント・ピーターの話をしました。父の声はもう弱くなっていたけれど、父は自分の指をかざして、私たちにこう言いました。「ほら、僕は真珠のレンガを盗んで、天国への扉を閉めさせないようにするさ! そうすれば、君たちだって天国の門をすり抜けることができるだろ!」。

 父は病院で、夜にラジオを聴くことを楽しみにしていました。父が6NR[オーストラリアのラジオ局]で流れていた“Happiness”という歌を聴いたのは、夜も更けてからのことでした。父はこう思ったそうです。「お!!これは僕の歌だ! この曲の歌詞は、まるで僕の人生を歌っているようではないか!」。父はこのアップビートでハッピーな歌を、今日のお葬式の最後に流して欲しいと言ったのです。後ほど皆さんは、父が自分の人生の生き写しだと考えたその曲を聴くことになるでしょう。父は、自分のお葬式のことまで面倒を見てくれるような人でした。この今日のお葬式をどう構成するかまで助けてくれて、自分が処理できなかったことをまとめ、自分が去った後、私たちに残される責務をどう扱えばいいかに関する指示を書き残してくれました。父は、残された家族が自分の死を仕切り、その後もちゃんと暮らせるよう、生きているうちに彼ができることをすべて、実際的にやってくれたのです。でも、私たちを悲しませたくなかったのでしょう、口では何も語りたがりませんでした。ただ、亡くなる週に、自分の死を電車のホームに例えて私たちにこう話しました。「僕は死ぬわけではないんだよ。ただ電車を乗り換えて、新しい旅を始めるんだ」。父は、父だからこそ、今までもどんな状況にも対処していたように、熱意と善良な精神を持って、この旅を続けていけるはずです。そして、天国の門を通る時も、目を輝かせてセント・ピーターにジョークの一つや二つ言い放つことでしょう。そして、私たちが「天国急行」に乗って父と落ち合う時が来たならば、父は終点の駅のホームで、私たちを、私たちみんなを待っていてくれることでしょう。

 私は、今日ここに来て、友情を表わしていただき、父を長年にわたり支えてくださった皆さんに対して、心から感謝したいと思います。父も、今日こんなにも父が愛する人々がここに来てくださったのを見たら、ぞくぞくするほど感動し歓んだことでしょう。特に、アイオナ・コミュニティーのシスター・フローラやシスター・メアリーには、私たちを支えてもらった上に、今日の式の準備段階から手伝ってもらい、本当に感謝しています。父の火葬の後、通夜が私たちの家で行われます。今日こちらに来ていただいている皆さんの通夜への参加は大歓迎です。そしてぜひ、知らない方、すなわち、ご自身と違った立場で父と知り合った方にも自己紹介をして、とってもたくさんの人の心に触れたすばらしい父の話をしてお互いに分かち合ってください。このように私の父、フランシス・チャールズ・コンランの思い出を語れば、それは、私たちの心の中にいつまでも生き続けるでしょう。

[翻訳:井出貴之/伊藤悟]

コンランさん追悼ページTOP HOME